眼鏡が求められる人のもとに行くということは生まれてくるまでのすべてを肯定されていってほしい。表現は決して駆け引きではなく、自分そのもの、もしくは自分という器に入れる霊性を許すことのような気がしている。眼鏡が鏡である限りそのまましか写らないのであれば興味はわかないが、時に何じゃそりゃっていう感じに輝ければ眼鏡愛好者にとってはささやかな喜びへとなるのだろう。今日から8月。ピアノが側にいてくれてこの空間だけでの旅が出来る。ピアノはこちらに問うてこない。どうあってもいいよという懐の深さにむしろ甘えずに下手なりに演奏しようとなってくる。メロディーというか
時を奏でるのであれば、あれ?いつのまにかピアノののことを話してるけど、鍵盤を見ながら弾くのと心で響き合うのでは異なる表現になっている。きっと霊性とはコントロール出来ない何かとの共演。1日に書き始めた文章が2日に目覚めるかのように本日も眼鏡とピアノによい時間迎えることが出来ますように。LOVE